全てが終わり、鍵盤から指を下ろしてほっと一息をつく。私が歌うことはできなかった
けど、こうしてファルさんの歌声を聴いていると、本当に気分が穏やかになっていくのが
わかった。
 顔を上げて彼女になにかを言おうかとすると、大きな拍手によってその動きを止められ
た。子ども達は、私達の演奏を聴いて、目を輝かせている。その後ろではアッズィーロさ
んが笑顔を浮かべ、お義父様もいつも通り憮然としてはいたが、唇の端を少しだけもちあ
げて、かすかに笑っているように見えた。めったにそんな表情を浮かべることはないのに、
今日の演奏がよほど気に入ったということなのだろうか。
 だとしても、それが私の力だとは思えない。共に歌っていたファルさんの歌が、素晴ら
しかっただけに違いない。だって私は――いつもの無心の演奏とは違い、他の誰かのこと
を思い浮かべていただけなのだから。

 アッズィーロさんや、かつての私と同じ子ども達の手厚い歓迎を受け、その後で私は部
屋に一人でいた。電灯は備え付けられてはいるが、ここではローソクの灯りで夜を過ごす
のが普通だ。その懐かしい揺らめくような光を背に、二段ベッドの下、膝よりもさらに低
い位置にある硬いクッションに腰を掛け、私はうつむいていた。ベッドの上の段は、今日
は誰にも使われることはない。この部屋は、アッズィーロさんが私のために用意してくれ
た最高のもてなしだった。
 昨日の夜はお義父様やファルさんと同じホテルに泊まったが、ここが私の生まれ故郷だ
ということもあり、今日だけはここに泊まらせてもらえることになったのだ。
 そして――理由はわからなかったが、ファルさんも今は隣の部屋で寝ているはずだった。
 心のこもった料理、そして、何年か前からお友達になれた子ども達との会話。そんな時
間が私に優しくて、つい心が緩んでしまった。
 今年から通うことになったピオーヴァ音楽学院のこと。そしてフォルテールのこと。毎
年同じようなことを繰り返して話している気がするけど、その度に喜ぶ彼等の顔を見ると、
断ることもできなかった。
 つまり私は、羨望の的でもあったのだ。望む、望まないに関わらず。
 ここにいる子ども達は、なにももっていない。だから憧れる。私の得た、夢のような生
活を。
 ……それがどんな意味をもっているかを、彼等は知らない。いや、知ったとしても、そ
れでも望むだろう。私のもつささやかな不満は、一笑される類のものだった。

「……でも」

 思いも掛けず口に出てしまった言葉を、私は飲み込んだ。なんて思い上がった言葉だろう。
それでも、歌いたかった……なんて。
 あの頃の私は、ただ歌えるだけで幸せだった。一人で、他になにもなく歌っているのも
確かに好きだったけど、アッズィーロさんのピアノに合わせて歌うのが一番好きだった。
誰かと繋がり合えた気がして、誰かと一緒になにかを作り上げている気がして。だからピ
アノを覚えようとせがんで、まだ小さいからって触らせてももらえなかったっけ。
 そして、私は片隅に忘れ去られたフォルテールに目をつけたんだった。
 今思えば、あの時フォルテールを弾かなかったら、私はどうなっていたんだろうか。も
う少し身体が大きくて、ピアノを教わることができていたら。今とは全然違う自分になっ
ているはずだろう。ひょっとしたらこの町で、なにかの小さなお店の手伝いをしていたか
もしれない。
 でも、現実は違う。誰か――ひょっとしたらお義父様かもしれない――有名な貴族の方
が寄付をしてくださった、古い古いフォルテール。調律もろくにされてなくて、でも誰も
弾くこともできなくて、誰からも忘れ去られた置物のように埃をかぶっていたその楽器。
私は、ピアノから視線を外して、不意にその魔法の楽器に触れてみたのだった。
 それからは、周りの誰からも違うように見られたっけ。調子の外れたような音が、思わ
ず笑ってしまうような貧相な音がその楽器から流れ出た途端、私は、そして私の人生は
変わってしまった。多くの貴族の方が、こうして今の私達のように孤児院に演奏を聴かせ
にきてくれるという話は聞いていたけど、あまりにもその数が多すぎて、何年か――もしく
は十数年に一度あれば良い方だったはずなのに。
 その年いきなり、お義父様がここにやってきた。
 それからのことは、あまりにも早く時が流れてしまったような気がして、思い起こすの
も大変なくらいだ。養子としてお義父様の子どもになることが決まり、周りからは羨望の
眼差しで見送られた。断る……という選択肢は、少なくとも私には与えられなかった。誰
もが目を輝かせ、私の幸せを確信に満ちた口調で話していた。私は、ほとんど自分の意
志を考える暇も無く、まるで上から流れ落ちる水のように今の生活を得たのだった。
 そのことを……少なくとも後悔はしていない。できるわけがない。私は……。

「……私は、幸せなんだ」

 そう、誰もが言った。

 誰にも聞かれることなく、その呟きは溶けて消えた。私はローソクの火をふっと吹き消
し、静かに立ち上がり、そっと部屋を出た。明かりのない廊下を足音を立てないようにす
り抜け、目当ての場所へと向かう。子ども達はもう、すでに寝静まっている頃だろう。ど
うしても軋んだ音を立てしまう木の廊下を抜けた先にあるのは、広くもなく、そしてけっ
して狭くもない居間だった。
 その片隅に、その楽器は今もひっそりと佇んでいた。私が見つけた時と一つだけ違うの
は、その上に綺麗なカバーが掛けられていていることだっただろう。私がここを出てから、
初めて戻ってきて演奏をしたあの日、アッズィーロさんが満面に笑顔を浮かべて言ってい
た。これは希望なのだと。ここで暮らすことを余儀なくされた子ども達の、希望なのだと。
 私の名前は、多分この孤児院で忘れ去られることはないだろう。過分な幸せをつかんだ
女の子。この楽器を弾くことができれば、きっと幸せになれるだろう、と。
 そして私は、そっとそのカバーを取り外し、鍵盤に軽く触れてみた。これが全ての始ま
りだったんだと、改めて思い返しながら。

 

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